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おぼるるもの

溺るるもの

豊島 与志雄

「中央公論」1928(昭和3)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,690 字 · 36 页

青空文庫

鏡台の方ににじりよって、鏡でのぞいてみたが……口を開いて指を一本くわえてる自分の顔が、ひどく醜かった。あの人がよく私の後ろからそっと見た鏡の中の顔、そういう時の顔が一番好だとあの人は云っていた。……あの人はどうしてるんだろう。

ばか、ばか、とあたしは自分に云ってやった。そしてなお歯をゆすった。痛かった。痒いところをつねるような痛さから、もうそれを通りこして、頭のしんに響くような痛さになっていた。忘れよう忘れよう、心の底であたしは云った。そして歯をゆすった。何だかしらんが無精に腹が立った。そしてとうとう、力任せに歯をひっこぬいてしまった。

あたしはびっくりした。冷い風が、歯のぬけた跡から吹きこんで、身体中を吹き廻った。そのくせ、熱いきりきりした痛みが、顳のあたりまでのぼってきた。上の平たい根の長い歯を、あたしは懐紙に包んで、鏡台の抽出にしまった。その時気がつくと、口の中が血で真赤になっていた。あたしは懐紙をくわえた。歯の跡が大きな空洞になっていた。身体にも心にも、力の心棒がなくなったようだった。あたしは泣きだした。

男の声がした。言葉は分らなかったが、はっきり声が聞えた。