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おぼるるもの
溺るるもの
豊島 与志雄
「中央公論」1928(昭和3)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,690 字 · 36 页
けれどあたしには二三杯きり飲ませなかった。その上あの人は、うわべだけ面白そうに話をしていたが、何だかいつもと違って、じっとあたしの方を窺うような眼付をしていた。ちゃんと坐ったきり、膝もくずさなかった。あたしが寄り添っていっても、それを避けたがってる風だった。あたしは妙に冷いものを、それから淋しいものを感じた。あの人に急に逢いたくなっても、処番地は知りながら訪ねて行くことも出来ず、手紙を出すことも出来ない、そうした自分の身がふっと頭にうつった。
「仕事にもいろいろあるけれど、働けば働くほど面白くなり愉快になる仕事は、よいものだ。働けば働くほど嫌な気持になる仕事は、いけないものだ。」
何かのひょうしにあの人がふと云ったその言葉が、変にあたしの心に残った。あたしは云いたいことが山ほどあるようでいて、何一つ云えなかった。そしていつもより冷い態度であの人を帰した。
そのことが、後でとても淋しくて仕様がなかった。あの人は一週間ばかり来なかった。その間あたしは、出来るだけ口を噤んで、眼をつぶって、じっともちこたえた。抜歯のあとの空洞が始終気にかかった。けれど自棄は起さなかった。