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ひのとり

火の鳥

太宰 治

「愛と美について」竹村書房、1939(昭和14)年5月20日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 37,740 字 · 76 页

青空文庫

「誰にかけたか知ってるね?」

うなずいた。

「そいつは?」

「わかい人でした。」

「名前さ。」

「存じません。」

紳士たちの私語が、ひそひそ室内に充満した。

「まあ、いい。これからすぐ警視庁へ来てもらう。歩けないことは、あるまい。」

自動車に乗せられ、窓からちまたを眺めると、人は、寒そうに肩をすくめて、いそがしそうに歩いていた。ああ、生きている人が、たくさん在るのだ、と思った。

留置場へ入れられて、三日、そのまま、ほって置かれた。四日目の朝、調室に呼ばれて、

「やあ、君は、なんにも知らんのだねえ。ばかばかしい。かえってもよろしい。」

「はあ。」

「帰って、よろしい。これからは、気をつけろ。まともに暮すのだぞ。」

ふらふら調室から出ると、暗い廊下に、あの青年が立っていた。

さちよは少し笑いかけて、そのまま泣き出し、青年の胸に身を投げた。

「かえりましょう。僕には、なんのことやら、わけがわかりません。」

この人だ。あの昏睡のときの、おぼろげな記憶がよみがえって来た。あのとき私は、この人に、しっかり抱かれていた。うなずいて、つと青年の胸から離れた。

外へ出て、日のひかりが、まばゆかった。