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ひのとり

火の鳥

太宰 治

「愛と美について」竹村書房、1939(昭和14)年5月20日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 37,740 字 · 76 页

青空文庫

序編には、女優高野幸代の女優に至る以前を記す。

昔の話である。須々木乙彦は古着屋へはいって、君のところに黒の無地の羽織はないか、と言った。

「セルなら、ございます。」昭和五年の十月二十日、東京の街路樹の葉は、風に散りかけていた。

「まだセルでも、おかしくないか。」

「もっともっとお寒くなりましてからでも、黒の無地なら、おかしいことはございませぬ。」

「よし。見せて呉れ。」

「あなたさまがお召しになるので?」角帽をあみだにかぶり、袖口がぼろぼろの学生服を着ていた。

「そうだ。」差し出されたセルの羽織をその学生服の上にさっと羽織って、「短かくないか。」五尺七寸ほどの、痩せてひょろ長い大学生であった。

「セルのお羽織なら、かえって少し短かめのほうが。」

「粋か。いくらだ。」

羽織を買った。これで全部、身仕度は出来た。数時間のち、須々木乙彦は、内幸町、帝国ホテルのまえに立っていた。鼠いろのこまかい縞目の袷に、黒無地のセルの羽織を着て立っていた。ドアを押して中へはいり、

「部屋を貸して呉れないか。」

「は、お泊りで?」

「そうだ。」

浴室附のシングルベッドの部屋を二晩借りることにきめた。