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たざきそううんとそのこ

田崎草雲とその子

吉川 英治

「文藝春秋 夏期増刊号」1932(昭和7)年

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,568 字 · 40 页

青空文庫

『おやすい御用、たんとはございませぬが』

細君は、お菊より年上だった。六畳間には、顔の長い、頬の削げた、そして窪んだ穴の中に鋭い眼のある老人が、漆黒の腮髯をしごいて、いつも書見か、墨池に親しんでいる。

器に、醤油と、味噌を頒けてくれながら、細君はいった。

『これをさし上げます程に、お宅様に、今夜だけの燈し油がございましたら、少々御無心いたしとうございますが』

お菊は、まっ赤になって、

『所が、生憎と、それも一昨日から無くなりましたので、昨晩は、暗いまま過しましたので』

『おや、おや。それでは自宅と同じ、無月の夜でございますの』

と細君は、お婆さんと見えない、ほがらかな声で笑った。これが若い時は閨秀詩人で鳴らした紅蘭女史であった。紅蘭が無月の洒落をいっても、奥で、笑いもせずにいる霊芝みたいな人間は、むろん慷慨詩家、梁川星巌なのである。

夜になっても、三軒長屋で、灯りがついたのは、左隣りの一軒だけだった。草雲の家は真ん中で、右が星巌、左が灯りのつく家だった。無月の晩などは、狭いだけあって、左の家は、小ぢんまりと、衣桁に紅い友禅などが見える。男気はなく、お墨に、お房、という母娘ふたりの女世帯である。