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たざきそううんとそのこ

田崎草雲とその子

吉川 英治

「文藝春秋 夏期増刊号」1932(昭和7)年

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,568 字 · 40 页

青空文庫

ドブ板さえ焚き付にされている狭い路地を、女房は、何気なく通りかかった振りをして、雨垂れ泣きの洩れる台所から、

『おや、坊ッちゃま、どうなさいましたえ』と、覗きこんだ。

『あれ、これが、欲しいんでございますか。これは、坊ッちゃまの食がるような物じゃございませんよ。オヤ、お泣きなさいますね。じゃ、置いて参りましょう。玩具になさいましよ』

と、握飯の皿を置いて、大急ぎで帰ってしまった。

画家の田崎梅渓と妻女のお菊は、奥で――といっても、六畳一間、やぶれ障子と、屑屋も逃げるような雑器のほか、何物もない。――暗然と、顔を見あわせて、

『ああ、美味そうな……』

と、握飯の皿へ、本能的にしがみついて、音をたてて食べているわが子、まだ、五歳の格太郎を、夫婦で、じっと見つめていた。

梅渓は、眼が熱くなった。お菊も泣いた。

『これだな、人間を邪悪にするのも、偉くするのも。この試練だ』

自分は、男泣きに、泣いているのだ。しかもこの七日程、食物らしい物は何も入っていない胃袋は、格太郎の指にくッ付いている飯粒を見ると、それを、奪っても食いたいような苦悶を起している。腸も胃も、暴れ廻って、吐き気のような生唾を感じるのだった。