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たざきそううんとそのこ

田崎草雲とその子

吉川 英治

「文藝春秋 夏期増刊号」1932(昭和7)年

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,568 字 · 40 页

青空文庫

『落款を』

と、すぐ思ったが、日課を思いだした。観世音にも、この行成を告げて、お礼をいってこよう。そして、精進を終えた和やかな気もちをもって、落款を入れよう。

彼は、草履をはいた。

十三文の足袋を穿く大きな足は、摺り切れた草履から踵だけ食みだしていた。だが、久しぶりに、彼の袂をふく風は、軽かった。爽やかな夕風が、苦しい仕事を済ました後の気もちを、柔かに宥ってくれる。

『菊、今帰ったぞ』

路地はもう暗かった。――おや、灯りが、まだ――と思いながら、

『格太郎も、まだ帰らぬか』

草履を脱いだが、返辞がない。

その癖、人の気配は、するのだった。

『菊、菊……』

と、つづけて呼んだ。

すぐに、むかっと、草雲はしたのだった。心では、泣いてやっている時でも、妻にはいつも、反対なものを、激しく打つけがちな彼だった。

『ばかっ。なぜ、灯をつけない。こんな真っ暗な中で、何をしておるのか』

『わたくし……』

と、細い声が、答えた。

そして、妙に、しいんとした暗闇の中に、白い顔が、彼をふり向いて、笑った。

『あっッ』

草雲は、全身を硬ばらせて、側へ行った。刃のような、怒りと冷たさが、かれの脊髄から爪の先まで走った。