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かぐらざか

神楽坂

矢田 津世子

「人民文庫」1936(昭和11)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,611 字 · 40 页

青空文庫

これまで、さんざお初のことで思い悩んできた内儀さんにとっては、お初は、もう今では諦めの淵の遠い石ころになっている。

春の終りに近い或る日暮れ時にこんなことがあった。

晩御飯をすませた爺さんはもう袋町へ出かけている。うす陽の残っている縁の障子に向って床の上の内儀さんは針を動かしている。後かたづけのすんだ種がその傍に小さい茶ぶ台をすえて、竹べらでせっせと内職のかん袋を貼っている。ふと、内儀さんが針の手を停めて、じっと何かに視入っているような気配を感じて種は目をあげた。障子の裏側を一匹の毛虫が匍いのぼっていく。内儀さんの眼はそれに吸い寄せられている。小指程の大きさの黒い体をうねうねさせて、みている間に二つの桟をのぼった。黒い硬い毛が障子にふれてカサカサというような微かな音をたてる。内儀さんは眸を凝らして視ている。毛虫が四つ目の桟を越えた時、内儀さんは障子へ手をのばした。毛虫はひとうねのぼった。内儀さんは持っていた針を突き刺した。毛虫は激しくうねった。うねりながら針に刺された体が反りかえった。緑色の汁が障子を伝って糸のように垂れた。内儀さんの眼は毛虫を離れないでいる。