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かぐらざか

神楽坂

矢田 津世子

「人民文庫」1936(昭和11)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,611 字 · 40 页

青空文庫

二、三日前のことである。

髪結いの帰り、今日は寅の日なのを思い出して毘沙門へお詣りに廻ったお初が戻ってくると妙に浮かない顔で何か思案事に心を奪われているという様子である。店で洗粉の卸し屋と話しこんでいたおっ母さんが声をかけても聞えないような風で梯子段をのぼっていく。

「どうしたのさ」

あとからおっ母さんが案じ顔で二階をのぞきこむと、窓枠へ凭りかかって呆んやりと金魚の鉢を眺めていたお初は気がついたように笑って、

「何んでもないのよ、おっ母さん、さっきね、坂で昔のお友だちに会ったの。嬉しかったわ」

と、何気ないように云った。何んだ、そんなことかい、とでもいうような顔でおっ母さんは店が気になるのかさっさと降りていった。母への気兼ねからお初は剥き出しには話をしなかったが、実は、さっき会った友だちに妙に心を惹かれていたのである。

お詣りをすませて毘沙門を出てきたところを、「あら、お初っちゃんじゃないの」と声をかけられた。小学校の時仲好しだった遠藤琴子だとすぐに気が付いた。小石川の水道端に世帯をもってからまだ間がなく、今日は買物でこちらへ出てきたのだ、という。