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しほんたいへいき

私本太平記(一)

吉川 英治

吉川英治『私本太平記(一)』。同一底本的分册已合并为一书。收入:私本太平記、私本太平記。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 246,214 字 · 495 页

青空文庫

「何で忘れようぞ」

「伊吹の夜のことも」

「いうまではない」

彼女は、とたんに泣いた。うれしいっ、と叫んだのも、その面も、双つの袖でつつんでしまった。そして、高氏の胸へ、仆れかかるように寄って来た。

「しっ、しずかに」

高氏は、人を惧れた。世間が憚られた。だが、とどろな波音の夜こそ、倖せだった。過ぎし年の、覚えをまざと甦らせるその黒髪を掻い抱いたまま、共に濡れ縁へ崩折れた。

「――今、誰か、わしを呼んだ気がしたが、それは、そなたの声だったか」

「ええ。……藤夜叉でございました」

「すりゃ、不思議。何ともふしぎぞ。そなたは、どうしてここにいたか」

「みな、あの御家来の」

「えっ、右馬介が?」

「親身になって、何から何まで、計ろうて下されたお情けでござりまする。その上、こよいもここで待てば、きっと小殿にお会い出来ようぞと」

「や、や。右馬介が、そういったか。……では、今宵、わしを誘うたのは、そなたと諜し合うての上か。はてなあ?」

高氏は、右馬介が去った遠くの闇へ、ふたたび、眸をさまよわせた。そして、その右馬介の本心も、藤夜叉も、自分もあわせて、すべてが分らなくなっていた。