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しほんたいへいき

私本太平記(五)

吉川 英治

吉川英治『私本太平記(五)』。同一底本的分册已合并为一书。收入:私本太平記、私本太平記。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 252,330 字 · 505 页

青空文庫

いや、むずかしい」

「……あ。お気をつけなされませ。咬まれますぞ」

「なんだ、はやほの暗いが」

「さっきの、犬神憑きの女が仆れています。海藻のように」

「さいぜんの女か」

「べつ人かもしれませぬが」

「犬神憑きは、鳥合ヶ原のお犬場の囲いから解かれた犬が、何百匹も狂い出て、それから流行り出したものゆえ、亡き高時公の怨霊にちがいないと、町の男女はみな信じているようだな」

「いや武士たちもです。……乱暴な兵までが、犬神憑きには、乱暴をいたしませぬ」

「妙に、死後この鎌倉では、高時公というと、一様にみな涙を寄せているらしいの」

「逆に、その人を討った新田殿は、冷たい眼で見られがちです。こちらにとっては、まあ倖せともいえますが」

波音は屈託がない。なぎさに沿って、二人はだいぶ歩いた。いつか夜の海だった。この日頃こびりついていた焦土の屍臭も、やっと心から洗われたここちがする。

「もどろうか」

和氏が言いだしたときである。

「兄者」と、師氏はうしろへ目をやって「――ちょっとお待ちなされませ」

「なんだ?」

「いま私たちを見て、そこの漁師小屋のうちへ……塩焼き小屋か……ひどく慌てたさまをして逃げこんだ女がいます」