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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

13 黒白帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 116,638 字 · 233 页

青空文庫

などとささやかれたのみだった。

越前ノ前

と、よぶよりは、尊氏にはやはり、藤夜叉とした方が、胸にせまるし、生きてもいる。

「なに、いなくなった?」

彼女の失踪と聞いたときの彼の驚きは、国家的な大変と、一家族との違いこそあるが、後醍醐のきみを掌から逃がした折よりも、もっと、あらわな苦痛を、おもてへにじみ出していた。

「ふらちな女だ」

と、言ってから、また次に。

「せっかく、不知哉丸を元服させて、直冬と名のらせ、錦小路殿(直義)の養子として据えたものを、なにが不足ぞ。すてておけ。行方などはさがすにおよばん」

事を、政治として扱うときの彼と、全然、私情でしかない場合の彼とは、まるで別人の観がある。だらしのないほど、一面はもろい。

しかし、このことに限っては、それきり藤夜叉の名も口にしなかった。――もっとも、時はすでに二月下旬で、越前の戦況が、朝に夕に、ひんぴんと聞え、それの早馬が入るたび、幕府の室町界隈は、わきかえっていたときでもある。

そして、三月に入ると、まもなく、

金ヶ崎落城

の報が、斯波高経と高ノ師泰との連名で、早打ちされてくるし、ひきつづいて、落城のさい、足利勢に捕われた後醍醐の皇太子恒良が、現地から都へ、押送されて来た。