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しんのしゅっぱつ
秦の出発
豊島 与志雄
「文芸」1945(昭和20)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,532 字 · 29 页
喧騒の都市上海の目貫の場所にも、思わぬところに閑静な一隅がある。円明園路の松崎の事務所もその一つだ。街路には通行人の姿さえ見えないことがあり、煙草の屋台店がぽつねんとして――私はいつもここで煙草を買うことにしていた。その屋台店の近くの大楼の六階に松崎の事務所はある。南の窓一面に陽を受け、東の窓からは、煉瓦塀越しに、英国領事館内の木立が見下され、茂みの中から小鳥の声が聞えてくる。
この事務所に、松崎はりっぱな碁盤を一つ備えていた。商会の看板は出ているが、人の出入は稀で、とっつきの広間に体躯逞ましい二三の事務員が居るきり、めったに開かれないらしい大きな帳簿を前にして、雑誌を読んだり小声で話しあったりして、広すぎる応接室といった感じだ。その片隅を横ぎって、木の扉を開くと、松崎の室になる。書棚、贅沢な椅子類、窓際に碁盤……。私は松崎とよく碁を打った。彼の棋力は私とほぼ同程度だか、棋風は捉えどころがなく、こちらが強く出れば力戦を辞しないし、ふうわりと押せばさらりと受ける。秦啓源も時折やって来て、私達の碁を楽しげに眺めた。盤に向うのは、その他の日華人少数だった。