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うつくしいむら
美しい村
堀 辰雄
序曲「大阪朝日新聞」(「山からの手紙」の表題で。)1933(昭和8)年6月25日、美しい村「改造」1933(昭和8)年10月号、夏「文藝春秋」1933(昭和8)年10月号、暗い道「週刊朝日 第25巻第13号」1934(昭和9)年3月18日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 42,946 字 · 84 页
こんなことなら何もあんなにまで苦しまなくともよかったのだと私は思いもした。そうして最近私を苦しめていた恋愛事件をそっくりそのままに書いてみたら、その苦しみそのものにも気に入るだろうし、私にはまだよく解らずにいる相手の気持もいくらか明瞭しはしないかと思って、却ってそういう私自身の不幸をあてにして仕事をしに来た私は、ために困惑したほどであった。私はてんでもうそんなものを取り上げてみようという気持すらなくなってしまったのだ。で、私は仕事の方はそのまま打棄らかして、毎日のように散歩ばかりしていた。そうして私は私の散歩区域を日毎に拡げて行った。
或る日私がそんな散歩から帰って来ると、庭掃除をしていた宿の爺やに呼び止められた。
「細木さんはいつ頃こちらへお見えになります?」
「さあ、僕、知らないけれど……」
それは私が何日頃この地を出発するかを聞いたのと同じことであるのに爺やは気づきようがなかったのだ。
「去年お帰りになるとき」と爺やは思い出したように言った。「庭へ羊歯を植えて置くようにと言われたんですが、何処へ植えろとおっしゃったんだか、すっかり忘れてしまいましたもんで……」