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ろうば
老婆
小川 未明
「新天地」1908(明治41)年11月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 5,436 字 · 11 页
夜遅く帰えって朝早く務めに出てしまうばかりだ。それでも気味悪く思ったものだから、工場から帰える時に二尺ばかりの鉄棒を一本持って帰って戸棚の隅に隠して置いた。けれど婆さんは決して二階などへ上って来たことはない。私も別に下りて行て話しかけたこともない。偶々便所に行く時など下へ降ると婆さんは暗いランプの下で眤と彼方を向いて黙って坐っている。私も声をかけなければ婆さんも声をかけたことがない。その時ちらと横顔を覗くと茫然とした顔付で、何処か優しみのある、決して悪相を備えている人柄の悪い婆さんでないと思うので、日頃婆さんを気味悪く思ったり、悪く思っているのが気の毒になって、つい、
「お静な晩ですね。」と声をかけてしまう。すると婆さんは、きっと小さな咳をつづけさまに三つばかりやって、
「そうな……静かな晩だな。」と答える。その声がなんでも何処か、誰かに似ているなと思うが、未にその人のことが考え出されない。私は、その儘頭を傾げて便所に行き又二階へ上ってしまう。二階へ上ってしまってから、婆さんの声が誰かに似ている――何んでもその似ている人というのが自分と曾て直接に物を言ったことのある人らしく思われた――誰だったろうと考える。