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えんしょ

艶書

山本 周五郎

「小説倶楽部」桃園書房、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 25,027 字 · 50 页

青空文庫

「もうこんなふうにしておめにかかれなくなりますからね」と彼は眼をそらしながら云った、「最後にひと言だけ……お別れにさし上げたい言葉があったんです」

七重は彼をみつめたままうなずいた。

「世の中には苦しいことや悲しいこと、辛いことや汚らわしいことがたくさんある」と彼は云った、「あなたも結婚すれば、どうしてもそういうことを経験しなければならない、そういうとき絶望したり、やけになったりしてはおしまいです、人間にもそれぞれ弱点がある、醜い、いやらしい面が誰にだってあるものです、苦しみや悲しみや、醜さやいやらしいことを経験し、そういうものに鍛えられて、はじめて人間はおとなになってゆくんです、わかりますか」

七重の眼に涙がうかんできた。彼女はその(涙のうかんだ)眼で、なお出三郎をみつめながらうなずいた。

「もういちど云いますが、世の中には美しいことばかりは決してないものです、どうかそれを忘れないでください」出三郎はこう云って七重に微笑してみせた、「自分が若いくせにこんなことを云う資格はないだろうが、七重さんとは長いつきあいだったし、餞別にさし上げる物もないものだから」