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きくちよしょう
菊千代抄
山本 周五郎
「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页
あのときのことを忘れないのだろう、歩いていてみかけると、田を隔てた向うの道からでも鄭重に挨拶するし、小屋のまわりでなにかしているようなときにも、菊千代が通りかかると必ず、敏感に気づいて、頭を低く下げて黙礼した。
――武家であることは慥かだ。
菊千代はその身ぶりを見るたびにそう思った。
――それも志操の正しい人間に相違ない。
そして自分ではなるべくそ知らぬ顔をして、めだたないように魚や鳥などをときどき持ってゆかせたり、嵩間から月に二度ずつ医者が来るとたちよって診察や投薬をするよう命じたりした。……彼が某藩の浪士で楯岡三左衛門という名であることや労咳も年が年だから、たぶんこのままかたまるだろうなどということは、みなその医者から聞いて知ったのである。
移って来て翌年の秋、別家の巻野主税がとつぜん中山へ訪ねて来た。彼はぶくぶく肥って、しゃれた口髭など立てて、朝から酒を飲みながら、もう世の中がつまらないから、いっそ絵師にでもなろうかと思うなどといった。
「こんなことを申上げてはあれですが、ちょっと悪い女にひっかかりましてね、私もだいぶひどいめにあいましたが、子供ができたなんていいだしたりしましてね、誰の子だかわかりゃあしないんですが、それでまあ、そのあれなんです、そのほうの始末をするあいだ江戸にいないほうがよかろう