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きくちよしょう
菊千代抄
山本 周五郎
「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页
十一
彼は衿を左右にひらいて「斬れ」と云った。その痩せて骨立った、蒼白い胸に、古い突き傷の痕が二つ、慥かに見えた。
「――だがそんなことはある筈がない」
菊千代は口の中でそっと呟いた。それと同時に眼の前の霧が消えるように思い、椙村半三郎の姿がありありと見えてきた。……菊千代は松尾に声をかけて、静かに云った。
「――侍長屋の、楯岡を呼んで呉れ」
十一
時刻が時刻だし、また菊千代が乱暴するのではないかと心配したのだろう、松尾は夜が明けてからにするようにとなだめた。しかし結局さからっては却って悪いと考えたようすで、手燭に火を移して出ていった。
かなり待った。そして三左衛門が来た。着替えをし、袴をはいていた。菊千代が夜具の上に起きなおると、松尾が背へ衾を掛け、髪へ櫛を入れた。
「おまえはさがって呉れ」
こう云って松尾を遠ざけてから、菊千代は三左衛門のほうを見た。彼はずっと離れて手をつき、頭を垂れていた。
「久方ぶりであった、椙村半三郎、近う」
彼は頭を垂れたまま、呼吸五つばかりして、それから膝でこちらへ進み出た……いたましく尖った肩、痩せている躰躯。……田を隔てて挨拶をした姿がみえる、薪を割っているときのおちついた身ぶり、屋形へ移ってから初めて森の柵のところで見た肩を跼めたようなうしろ姿。