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たでくうむし
蓼喰う虫
谷崎 潤一郎
「大阪毎日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月17日<br>「東京日日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月18日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 110,066 字 · 216 页
「まあもう一と幕見て、お久さんの心づくしを戴いてからの都合にしようよ」
けれども妙に間が合わなくなった夫婦の気持は、二た幕目の「治兵衛内の場」を見ている内に一層変にさせられてしまった。たとい人形の演ずる劇であり、奇怪な誇張に充ちている浄瑠璃の物語であるとは云え、治兵衛とおさんとの夫婦関係には、二人がそっと相顧みて苦笑を余儀なくするものがあった。要は、「女房のふところには鬼が栖むか蛇が栖むか」と云う文句を聞くと、それがいかにも性慾的にかけ離れてしまった女夫の秘事を婉曲ながら適切に現わしているのに気づいて、暫く胸の奥の方が疼くのを感じた。彼は義太夫の「天の網島」は巣林子の原作でなく、半二か誰かの改作であるのをぼんやり記憶していたが、きっとこの文句は原作の方にあるのだろう、老人が浄瑠璃の文章を褒めて「今の小説なんかとても及ばない」と云っているのは、こう云うところを指すのだろうと思うと、ふと又気がかりなことが浮かんだ。今にこの幕が済んだあとで、老人がこの文句を持ち出しはしないか。「鬼が栖むか蛇が栖むかとは、昔の人は実にうまいことを云ったもんだね」と、例の口調で皆に同感を求めはしないか。