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みかん
蜜柑
佐左木 俊郎
「随筆」1927(昭和2)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,618 字 · 14 页
慥かに誰かが来ている。――とお婆さんは思った。そう思った瞬間、客があるという意識で、お婆さんは小児のような心理状態に置かれた。
「松! 松! 松はいねえがあ?」
お婆さんは、咽喉に引っ掛かるような声を搾って、二番目の孫娘を呼んだ。併し、それにはなんの答えもなかった。
「松! 水一杯呑ませで呉ろちゃ。」と、お婆さんは続けた。そして咽喉をごくりと言わせた。
やはり、なんの答えも返っては来なかった。一時杜絶えた囲炉裏端の話し声は、再びひそひそと続けられているらしかった。お婆さんは、青い静脈の浮いている瞼を静かに閉じた。そして唇を動かした。また咽喉がごくりと鳴った。
「駄目だ駄目だ。水なんか呑ませじゃ駄目だ。婆様は水を呑ませっとすんぐに寝小便だから……」
こう言っている声を、たしかにそう言っている声をお婆さんは聞いたように思った。
蒼白い瞼の陰には、いろいろな場面が繰り展げられた。六十幾年間の自分自身の苦闘の姿であった。そこには、寝小便ばかりではない。食事最中にまで、自分の懐で糞をした伜や孫がいた。そして、一旦老衰の床に就くと、一杯の水さえ自由に与えられない自分自身の姿が、自分の瞼の裏に描かれていた。