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こわく
蠱惑
豊島 与志雄
「新思潮」1914(大正3)年3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,765 字 · 28 页
然しまたそのため私にとっては一層貴くなっていくようにも思えた。
ある日母がそれを見たいと云った。父の死後私は何にも母に隠さないんだ。だからそれも見せてやった。母はそれを読んでから、眼に一杯涙をためて、これはしまっておいて暫く見ない方がいいよと云った。私はその涙の中にうち震えて泣いている母の魂を見た。それでそれを手文庫の中にしまおうと思った。それはもとから私の家に在った古い金蒔絵のものである。
私は手文庫の中に書いたものを入れて錠を下した。それは大変いい錠前なんだ。びーんという鉄の音がした。
その音が私の心の底に響くんだ。そして私の魂を搾るんだ。私は其処に身を投げ出して泣いた。両手で胸を緊と押え乍ら身を悶えた。ほんとにどうにも出来なかったのだ。
やがて私は起き上った。そして涙を流し乍らその手文庫を床の間の中央に据えた。それを眺めたまま私は暫くぼんやりと何かを考えた。
――私はなんにも知らなかったんだ。そしてやはりまだこの室にじっとしている。今私の胸のうちにひそかに囁きつつ遠い空から下りて来るものがある。私は静にしていなければいけないのである。そしてじっと祈るような心で居なければいけないのである。