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こわく

蠱惑

豊島 与志雄

「新思潮」1914(大正3)年3月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,765 字 · 28 页

青空文庫

通りでも見たようだ。旅の記憶にも彼の顔がある。それから私はのび上って記憶の地平線の彼方に彼を探した。幼い折、小児の折、私が生れない前、其処にも彼の顔がある。……然しどうも明瞭としない。妙に紛糾したものが私の頭の中に醸されて渦を巻いている。

――その晩は妙に私は喉が渇いていた。それで紅茶を二杯のんで林檎を食った。その時丁度彼も紅茶を二杯のみ林檎を食ったのだ。

林檎の皮をむいたのを盛った皿を彼の前に置いて、そのまま足を返した女中は、私の方をちらとふり向いて袖を口にあててくすりと笑った。

私の心の中に何かがざわざわと騒いだ。その時私は凡てに腹立っていたのだ。それで急いで勘定をして立ち上った。その時彼がふり返って私を見た。その瞬間彼の眼が異様に輝いて私の胸を射た。

――カフェーの中の空気はそれきりまた静まって、私の世界のうちに落ち付いた。私は平和に菓子をつまみ紅茶をのんだ。

或る晩、彼がつと入って来た。その後ろに扉をしめて一寸彼は立ち止った。彼はぐるりと室を見廻して、それから私の方へその気味の悪い眼を据えた。その時私は明瞭と知った。彼は決して私の顔は見なかった。