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しんらん

親鸞

三木 清

「展望」1946(昭和21)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,550 字 · 73 页

青空文庫

すでに述べたごとく、末法時の特徴は無戒ということである。そこには道俗の本質的な区別はなくなる。賢愚、善悪、凡聖、老少、男女の区別も意義をなくする。それは聖道自力の教とは異なる絶対的な教が出現すべきことを意味している。この教は信心を根本とする教である。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」と『歎異鈔』にはいわれている。すなわち真理あるいは仏法、出世間の法は「信心為本」である。往生のためには他の善は要なく、念仏で足りるとすれば、すべての念仏者は、僧俗を分たず、貴賤貧富を論ぜず、平等でなければならぬ。末法時における無戒は諸善万行を廃してただ念仏のみが真実であるということの徴表である*。無戒ということは諸善万行の力を奪うものであり、そして積極的には念仏一行の絶対性、念仏の同一性、平等性を現わすものである。念仏はあらゆる人において同一であり平等である。