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すぎたはるのきおく

過ぎた春の記憶

小川 未明

「朱欒」1912(明治45)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 5,536 字 · 11 页

青空文庫

四

このとき、鬼は、

「もういいか。」

と、叫んだ。その方を振向くと、夕靄の中に立って、眼を隠している友の姿がぼんやりとして見えた。

「ま――だ――だよ。」

と、一生懸命で正一は、せつなそうな声を出して叫んだ。

すると、彼方の黒くなった藪の蔭から、

「何しているんだ。早く隠れれよ。」

という声がした。

正一の気は、焦立って、こうしていることが出来なくなった。

彼は、まごまごしてうろついている訳には行かなくなったので、自分独り、何処か他にいい処はないかと四辺を見廻して、森から他の場処を探した。

何処を見ても、眼を遮るようなものがなくて、ただ、この癈れ果てた空屋敷の跡には夕靄がぼんやりと白くかかっているばかりであった。

正一は、仕方なしに地面の上に臥ている訳にも行かないような気がして、気の急いでいる刹那に、ふと空井戸のあることに気がついて、早速其処に走った。

四

空井戸の中を覗くと、真暗であった。けれど、彼は、その井戸はいつかいろいろのもので埋っていて、其様に深くないことを知っていた。

中には、水がなかったけれど、落葉が溜ってきて、湿気ばんでいた。而して井戸の周囲には、苔が生えて、夜の靄は、この中から浮き上るように天上の方はぼんやりと霞んでいる。