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かとにん

過渡人

豊島 与志雄

「帝國文學 第二十二卷第四號」1916(大正5)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,206 字 · 41 页

青空文庫

矢島さんはそれらをちらりと見廻したが、そのまま書卓の前の肱掛椅子に身を落した。

「俺はこの頃何かに脅かされている。それが何だか俺には分らない。」と矢島さんは思った。

「俺は一人前の仕事はやって来たつもりだ。そして漸く俺の事業が安定になった今、この感情は一体何だ? 俺の生活が落ちついて来ると共に、俺の心は不安定になってくる……。」

矢島さんの生活は落ち付いていた。矢島さんは自分の身に名誉と富と権力とを意識していた。彼は自分の会社を思った。其処に働く多くの人と偉大な機械とを思った。日々に自分の意志に依って作り出さるる多大な電力を思った。それから、その電力を受くる幾多の工場、夜には数万の人家、それらの上に建てられた自分の力を思った。確かに矢島さんにとっては、事業は単なる営利の仕事ではなかった。意志と力と生活とが織り込まれた生きた人格の働きであった。

「俺は一個の社会の支柱だ。」と彼は自ら云った。

「然し乍ら俺はこの頃何かを欲している。この欲求は何処から来たのであろうか。或は俺は今の生活に倦怠を……。」

其処まで考えた時、矢島さんは大きい矛盾に捕えられた。彼は、自分自身の心に倦怠を感じていないことと、自分の生活のまわりに倦怠の色調が濃くなってきたこととを、殆んど同時に意識した。