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ちがうへいはちろう
違う平八郎
山本 周五郎
「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社、1939(昭和14)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,142 字 · 27 页
「そうも、思う事は、思うのですが」
「弱いお心ではいけませぬ、貴方はいま御自分の心にある幽霊のために怯えているのです、自分は徳川の本多ではない、違う平八郎だと思う、その弱い心が幽霊になって貴方の心を挫くのです。平八郎さまその幽霊をお捨て遊ばせ。本多平八郎は我一人、我こそ天下唯一人の平八郎とお思いなさいませ。出来ます、必ず貴方には出来ますわ」
平八郎は伏せていた眼をあげた。その眼の底に光りはじめている力を見て、お寧々は思わず平八郎の手を握りながら云った。
「寧々は信じて居りますわ、平八郎さま。貴方は織田家随一の大将に成る方です。寧々の良人は一国の主たるべき方です!」
「――あっ」
あっと云って立上る平八郎の前を、お寧々様は耳まで紅に染めながらすり抜けるようにして走り去った。
然し平八郎を驚かしたのは「良人」という言葉ではなくて寧々という其名であった。身分ある姫とは思っていたがまさか寧々姫とは思いも及ばなかった。美濃尾張かけてその美しさと男に勝る女丈夫で知らぬ者なき寧々姫、――その人がいま自分の前にいたのだ。その人が自分の手を執って、
「――ああ」
平八郎は畏れとも悦びともつかぬ歎声をあげた。