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かぜたちぬ

風立ちぬ

堀 辰雄

序曲、風立ちぬ「改造」1936(昭和11)年12月号、冬「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号、春「新女苑」1937(昭和12)年4月号、死のかげの谷「新潮」1938(昭和13)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 54,998 字 · 108 页

青空文庫

それから又、彼女の傍に帰った。私は再び本を取り上げて、それを読み出した。

「どうしたの?」彼女は顔を上げながら私に問うた。

「何んでもない」私は無造作にそう答えて、数秒時本の方に気をとられているような様子をしていたが、とうとう私は口を切った。

「こっちへ来てあんまり何もせずにしまったから、僕はこれから仕事でもしようかと考え出しているのさ」

「そうよ、お仕事をなさらなければいけないわ。お父様もそれを心配なさっていたわ」彼女は真面目な顔つきをして返事をした。「私なんかのことばかり考えていないで……」

「いや、お前のことをもっともっと考えたいんだ……」私はそのとき咄嗟に頭に浮んで来た或る小説の漠としたイデエをすぐその場で追い廻し出しながら、独り言のように言い続けた。「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。