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かぜたちぬ
風立ちぬ
堀 辰雄
序曲、風立ちぬ「改造」1936(昭和11)年12月号、冬「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号、春「新女苑」1937(昭和12)年4月号、死のかげの谷「新潮」1938(昭和13)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 54,998 字 · 108 页
冬
あなたはいつか私にこう仰しゃったでしょう、――私達のいまの生活、ずっとあとになって思い出したらどんなに美しいだろうって……」
彼女はだんだん嗄れたような声になりながらそれを言い畢えると、一種の微笑ともつかないようなもので口元を歪めながら、私をじっと見つめた。
彼女のそんな言葉を聞いているうちに、たまらぬほど胸が一ぱいになり出した私は、しかし、そういう自分の感動した様子を彼女に見られることを恐れでもするように、そっとバルコンに出て行った。そしてその上から、嘗て私達の幸福をそこに完全に描き出したかとも思えたあの初夏の夕方のそれに似た――しかしそれとは全然異った秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深味のある光を帯びた、あたり一帯の風景を私はしみじみと見入りだしていた。あのときの幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動で自分が一ぱいになっているのを感じながら……
冬
一九三五年十月二十日
午後、いつものように病人を残して、私はサナトリウムを離れると、収穫に忙しい農夫等の立ち働いている田畑の間を抜けながら、雑木林を越えて、その山の窪みにある人けの絶えた狭い村に下りた後、小さな谿流にかかった吊橋を渡って、その村の対岸にある栗の木の多い低い山へ攀じのぼり、その上方の斜面に腰を下ろした。