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なるとひちょう
鳴門秘帖
吉川 英治
03 木曾の巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 56,957 字 · 114 页
ただいたずらに、江戸へ残してきた二人の娘の愛情にばかり囚われていた。
本来、自分がこの阿波へ入り、こうした運命を招いた時の使命はなんだったか! 鳴門の渦と剣山の雲に蔽われていた徳島城の大秘密をあばいて、天下をアッといわせようという壮図に燃えていたのではないか。
老いたものだ。甲賀世阿弥も、いつのまにか焼きが廻った。その頃の元気を思うと恥かしい。
そうだ。支度をしておこう!
いつ何人がこの山を訪れても、すぐに、自分の探っておいた限りの言葉を、その者へ、手渡すことができるように。――よしや、それが無駄になるまでも。
かれの思慮は、ここへ、ピッタリと落ちついた。
死花だ! 死花だ! と彼の心は躍ってくる。徳島城内のかずかずの密謀や、歴々と、阿波一国にみなぎっている反徳川の風潮を、十分に探っていながら、この終身牢に枯死してしまう運命であったものが、誰かの手で、江戸城へ届けられるとすれば、その甲賀世阿弥に死花が咲くわけである。
虫のごとき死をまぬがれて、人間らしい死を遂げることができる。
で、世阿弥はその支度をしようとした。
しかし、ひるがえってみると、この山牢の中に、悠々と、そういう記録などを書き残しておく、筆墨などはない筈である。