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おさん

おさん

山本 周五郎

「オール読物」文藝春秋新社、1961(昭和36)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,128 字 · 66 页

青空文庫

一の三

女の激しい呼吸が止り、力をこめてつむっていた眼から、すうと力のゆるむのがみえた。上瞼の皺が平らになり、眉と眉のあいだがひらき、女は眩しそうに眼をあいた。

「なにか云って」

「いま云ったとおりさ」参太は声に意地の悪い調子を含めた、「聞えなかったのか」

「名を訊いたんじゃなかったの」

「聞えたんだな」

「おふさよ」と云って、女は身悶えをした、「いやだわ、こんなときに名を訊くなんて、どうしたのよ」

参太は「いい名だな」と云った。

一の三

初めてあんたにお茶を持っていったとき、あんたの顔を見るなり好きになったのよ、とおさんは云った。出仕事にいっていて、親方と打合せがあって帰り、店で話していたとき茶を持って来たのだという。こっちはまるで知らなかった。女に不自由しなかったというより、仕事で頭がいっぱいだったからだ。同じとしごろでも、友達なかまでは暇があるとそんな話ばかりする者があるし、いろごとなんぞにはまるっきり無頓着な者もいる。世の中に男と女がある以上、男が女をおもい女が男をおもうのは当然だろう。けれども、人間はそれだけで生きているものじゃあない、生きるためにはまず仕事というものがあるし、人並なことをしていたんでは満足に生きることはできない。