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おもかげ

おもかげ

宮本 百合子

「新潮」1940(昭和15)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,997 字 · 20 页

青空文庫

僕は大変愧しいことだと思った。そのなかに、今はもういない保の体の暖かさや、声や、子供っぽく両手で膝を叩いて大笑いする顔つきやが思い出され、朝子は、愛着に耐え得なかった。可愛い、可愛い弟の保の俤であった。

心配してさがしに来た素子の手を握りしめて、朝子はきれぎれに云った。

「保ぐらいの若い人に死なれるのは、こたえかたがちがう……全くこたえる」

そう云って涙をこぼした。

朝子たちの周囲には、平凡なようでまたそうでもない夏の下宿らしい日々があった。

食卓についているとき韃靼風に頭を丸剃りにして白麻の詰襟を着た四十がらみの技師と、一人おいた左隣りに坐っている白粉の濃い女との間に、何のきっかけからかトルストイが最後に家出をした気持がわかるとか分らないとか云う押問答がはじまった。技師は、間の一人をとばしてその女に話しかけるために縁無し眼鏡をかけた顔を食卓の上にのり出すようにして、「聰明なあなたにその心理が分らないことはないでしょう」というようなことを云った。するとそのエレーナという女は、「まあ」とどことなく自然でない昂奮のかくされた笑顔で、

「でもそれでは、良人として家庭への義務を忘れたことですわ。