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このなつ

この夏

宮本 百合子

「週刊朝日」1925(大正14)年10月1日秋季特別号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,213 字 · 13 页

青空文庫

私は、あわてふためいて台どころに降り、バケツに水を汲み込み、そとへ駆け出す。水がこぼれるから早くは駆けられない。体の肥って丸い、髪をぐるぐる巻にした私は、ドン・キホーテのところへと憐れに取急ぐサンチョ・パンザのように、瘠せて、脊高く勇ましい彼女に向って駆けつけるのだ――フダーヤは始めから釣れた魚を放すバケツは持ってゆかない。何故なら、彼女は賢くて、いくら波々水を張ったバケツを傍に置いても、水がぬるむばかりで放つ魚は殆ど決して針にかからないことを知っているから。そして、またいつものっそりとしている私を、たまにびっくりさせ、駆け出させたのは衛生上にもよいと知っているから。――四間に三間ばかりの釣堀に、午後彼女の姿を見る――これは何でもない。朝少し早く姿を認めたら、それは、こうだ。シニョーリーナ・ドン・キホーテは、たださえその忍耐のゆえで褒めらるべき釣を、更に道徳的価値ある自己鍛練の方便としているのだ。彼女は、私より少し年上なだけ、少し早く眼を醒ます。私は眠い、眠い。部屋数がないから、彼女は早く起きても自分だけ自由な行動はとれない、そのうちに眠っていた時は何でもなかった朝おそい室内の空気は、醒めて見ると、何と唾棄すべきものだろう。