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ばちあたり

ばちあたり

山本 周五郎

「小説新潮」新潮社、1960(昭和35)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,391 字 · 44 页

青空文庫

うちには半月ほどいたであろうか、私たちきょうだいとは殆んど没交渉で、いっしょに食事をした記憶もないし、中川という姓だけは覚えているが、名前も知らないくらいだった。

弁護士をしていた父は、そのころがもっとも全盛だったのだろう、東京の事務所にいるときでも、たまにしか私たちと顔の合うときはなかったうえに、絶えず長い出張をしていた。中川が寄宿していた期間、父が麹町の家にいたか、それとも出張した留守のことであるかはよくわからない。――五番町にあった家はあまり広くはなかったが、二階に三間、階下に五間あり、中川は階下の南の端にある四帖半を使っていた。その彼が或る朝早く、二階からおりて来たのだ。もう校服を着ていたが、帽子はかぶらず、手ぶらで、ゆっくりと階段をおりて来た。

私はなんの理由もなくどきっとした。

そのときの感じを云いあらわすことはできない。もちろん、二階に寝ている母のことなど考えてもみなかったし、中川のそぶりに変ったところがあったのでもない。中川は平静そのもので、廊下にいる私を見ると、いつものとおりぶあいそに「よう」と云っただけであった。しかも私はどきっとしたのだ、そんな感じは初めて経験したことであるが、十歳の子供の頭では解釈のしようもないし、すぐに忘れてしまった。