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シナーニしょてんのベンチ
シナーニ書店のベンチ
宮本 百合子
「文芸春秋」1928(昭和3)年6月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,387 字 · 15 页
長くしなしなして、ちょっとの風にも物思わしげに揺れたり屈んだり伸びたりするアカシヤの並木がチェホフの書斎の伊太利窓から見える。花壺の中の緑の仙人掌が庭にある。遠くの海に艦隊がきた。鼻眼鏡をつけ顎に髯のあるチェホフが、独身暮しの医者が、双眼鏡をとって海上の艦隊を眺める。
町では小歌劇、蚤の見世物。クニッペルがひらひらのついた流行型のパラソルをさしてそれを女優らしく笑いながら観ている。チェホフは黒い服だ。書斎は今ランプが点っている。まだ石油は臭わない。かなりよい。その下でチェホフは白い紙を展べ、遠くはなれて暮している女優の妻へ手紙を書いている。母が戸をたたき、入って来る。
――マーシャに云ってお呉れ、次のものを持って来るように。(1)女中の前掛。(2)肌着用の白テープ。(3)裾へ縫いつける黒テープ。(4)肌着の貝ボタン。
再び静か。淋しい。彼はただ坐って新聞を読んでいるだけだ。――この冬はモスクワで暮そう。どうなろうと、医者が何と云おうとも――
これらには、チェホフの作品中のある光景、気分の断片が照りかえしている。芸術家生活の小さい合わせ鏡。
この小さい、あらゆる点でチェホフらしい生活の合わせ鏡を、現在オリガ・クニッペルはどんな心持で手にとるだろうか。