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いっぽんのはな
一本の花
宮本 百合子
「改造」1927(昭和2)年12月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 26,709 字 · 55 页
「だれの?」
「甥の――わるくないでしょ? この色――」
「いつか往来で会った坊ちゃんですか」
「ああ、お会いになったことがあるのね」
幸子が、それを小耳に挾んで机に向ったまま、
「だれに会ったって?」
と大きな声で云った。
「健ちゃん」
暫く幸子のペンの音と、竹の編棒の触れ合う音ばかりが夜の室内を占めた。そのうるおいある静けさが、彼の心にしみ入ったという風に、大平がうつむいている朝子の髪の辺を見ながら呟いた。
「丁度こんなときもあったんだろうなあ」
朝子が、死んだ夫と暮していた生活の中に、今夜のような家庭的な情景もあったであろうという意味を、朝子は感じた。彼女は淡い悲しみを感じ、黙った。同時に大平の心の内にも、それにつけて自ら思い出される何事もその妻との間にないと、どうして云えよう。そう、朝子は思った。彼女はこれまでも、大平の去った妻については、自分の趣味と遠慮から進んで一言も触れなかった。今も、朝子は黙ったまま、小さいスウエタアの一段を編み終った。片手で、畳に落ちている毛糸玉から、更に糸のゆとりを膝の上へたぐりあげ、向きをかえて編みつづけようと、朝子が椅子の上で、少し胸を伸ばした。