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きずあとのはいけい
傷痕の背景
豊島 与志雄
「中央公論」1929(昭和4)年9月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,022 字 · 38 页
英子が帰ってきた時、杉本はまだ瞑想に沈んでいた。彼女は静に歩み寄った。
「どうしたの?」
彼の顔に、苦笑の波紋がゆるやかに拡がっていった――徐々に夢からさめる者のように……。
彼女は急に、彼の肩と頸とに取縋って、木像をでも抱くように、抱きしめた……。
五
座敷には煌々と電燈がともり、障子を取払った縁先には、岐阜提燈がまたたき、庭の芝生には、あちこちに、高張が白面をそば立てていた。それから先は植込で、初秋の星空の下に、高く、黒々と蹲っている……。
座敷の正面、床柱のわきに、主人の田代芳輔は、老いた……というより、歳月に磨かれた渋い顔を、屈託のない微笑に和らげて、人々の談話よりも、その上を流れる戸外の夜気を楽しむ様子で、言葉少なに控えていた。縫紋の絽の羽織が上布の単衣の肩をすべっているのは、膝をくずしているからであろう。葉巻の煙が、ゆるく立昇る……。周囲には、年齢の意味でなく仕事の意味での、少壮の、代議士、実業家、官吏など、和服や洋服が、置き並べた食卓を取巻いている。食卓の白布に、水盤の盛花がはえて……料理は質素で、銚子の数が多く……。そして賑かに、だがどことなく落付いて、互に献酬したり、或は手酌で……。