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まんじ

卍

谷崎 潤一郎

「改造」改造社、1928(昭和3)年3月~1929(昭和4)年4月、6月~10月、12月~1930(昭和5)年1月、4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 133,618 字 · 258 页

青空文庫

ついさっきまでまだその辺に人がチラホラしてましたのんに、もうてっぺんから麓までだあれも人の影ありません。その日は割にえらい人出でしたから、あのなだらかな、若草の生えた山の中ほどには、弁当のたべ残しや、蜜柑の皮や、正宗の罎が一杯散らかって、空はまだうす明いのに、足の下には奈良の町の灯イちらちらして、遠くの方の、ちょうどわたしらの真ア向うのあたりには、生駒山のケーブル・カアのイルミネーションがずうっと珠数のようにつながって、紫色した靄のあいだから、ところどころ絶えては続いてまたたいてます。そのまたたいてる光見ると、わたし、何やしらん息詰まるように感じたのんですが、「まあ、知らん間に晩になってしもて、淋しいわなあ」と、光子さんがいわれました。「一人やったらほんまに恐うていられへんわなあ」いいますと、「好きな人と二人だけやったらこんな淋しい所の方がええわ」と、そないいうて光子さんはためいきついておられました。「うちあんたと一緒やったらいつまででも此処でこないしてたいわ。」――わたしはその言葉口いは出さんと、夕闇のなかにうずくまって足投げ出してなさる光子さんの横顔眺めてましたが、暗いのんでどんな表情してなさるのんか分りませなんだ。