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ふるいど
古井戸
豊島 与志雄
「中央公論」1925(大正14)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 21,433 字 · 43 页
」
「だって、お父さんが何か云ったでしょう。」
「ええ、ひどいことを云ったのよ。だからあたし、机を放り出して駆け出してやったの。」
「どんなことを云われたんです。」
「あたし達があんまり仲がよすぎるって、そして……夫婦気取りでいるって……。」
「え、そんなことを云われたんですか。」
「ええ。あたし、腹が立ってむちゃくちゃになったけれど……もう平気だわ。お父さんなんか何と云おうと、構やしないわ。」
何の恥らいの色もなく、じいっと見入ってきたその素純な眼付の前に、彼は次第に顔を伏せてしまった。と、頭の中がぱっと明るくなった。
「そうだ……越すのは止しましょう。」
彼女はにっこりして、首肯いてみせた。
「私は馬鹿なことを考えていたんです。」
「何のこと。」
見入ってくる彼女を引寄せて、その額にそっと唇を押しあてた。彼女はじっとしていた。
「どんなことがあっても平気でいましょう。」
「ええ、あたし平気だわ。」
彼は晴れ晴れとした朝日の光を見やりながら、両手の拳を握りしめた。
けれど、光子が階下に降りてゆくと、彼はまた不安な焦燥に駆られ初めた。光子が一緒にいる間は、平然とした晴れやかな気持だったが、一人きりになると、凡てが陰欝に曇ってきた。