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ふるいど

古井戸

豊島 与志雄

「中央公論」1925(大正14)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 21,433 字 · 43 页

青空文庫

先夜、庭の暗がりで向き合った時、心のどこかに殺意が動きかけたことを、彼は後になってはっきり思い出した。気持が欝積してくると、今にも何かが破裂するかも知れないような気がした。夜分、松木が階下の室に控えていたり、同じ屋根の下に眠っていたりするのへ、意識が働きかけてゆくと、彼はじっとしておれない衝動を感じた。

そういう危い気持から遁れるために、彼はしきりと光子を求めた。何だかヒステリックなそして晴れやかなものを持ってる光子に、彼は次第に深く囚えられていった。恋愛でもなく、憐憫でもなく、訳の分らない感情だった。

「お父さんを好きですか。」

「嫌いよ。」

「お母さんは。」

「好きでも嫌いでもないわ。」

そして眼をきらきらとさせる光子を、彼は膝の上に抱いてやった。

「私がどこかへ行こうと云えば、どこへでもついて来ますか。」

「ええ、いくわ。」

「どんなところへでも。」

「ええ。」

二人で遠くへ逃げ出すのが唯一の途かも知れない、などと彼は考えた。然しまた、松木に対する訳の分らない憎悪の念が、却って彼を家の中に引止めた。

松木が生きてる以上は……と彼は歯をくいしばった。

そして彼が自分一人の気持に悶えているうちに、光子は急に病気になって、寝ついてしまった。