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めいじんじごく

名人地獄

国枝 史郎

「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页

青空文庫

尾行ける者ありと知ったのでもあろう、もう鼓を打とうとはせず、その人影は走って行った。その走り方を一眼見ると、

「しめた!」と老武士は思わずいった。

「横あるきだ横あるきだ!」

その横歩きの人影は、見る見る煙りのように消えてしまった。

「よし、あの辺は今生院だな。東へ抜けると板倉家、西へ突っ切ると賀州殿、これはどっちも行き止まりだ。さて後は南ばかり、あっ、そうだ湯島へ出たな!」

考える間もとし遅しで、老武士は近道を突っ走った。

「これ、ばか者、気をつけるがいい、何んだ、うしろからぶつかって来て」

こう怒鳴りつける声がした。湯島天神の境内であった。怒鳴ったのは侍で、ほかならぬ観世銀之丞であった。各好む道へ行こう、お前は武者修行へ出るがよい、おれは本職の能役者へ帰ると、こういって親友の平手造酒と、黒門町で手を分かつと、麹町のやしきへ戻ろうと、彼はここまで来たのであった。その時やにわにうしろから、ドンとぶつかったものがあった。

「これ何んとか挨拶をせい。黙っているとは不都合な奴だ」

いいいい四辺を見廻した。するとどこにも人影がない。

「あっ」と銀之丞は飽気に取られた。