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めいじんじごく

名人地獄

国枝 史郎

「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页

青空文庫

「これは不思議、誰もいない」

気がついて自分の手もとを見た。そこでまた彼は「あっ」といった。空身であった彼の手が、変な物を持っていた。

「なんだこれは?」とすかして見たが、三度彼は「あっ」といった。今度こそ本当の驚きであった。彼の持っている変な物こそ、ほかでもない鼓であった。それも尋常な鼓ではない。かつて追分で盗まれた、家宝少納言の鼓であった。

「むう」思わず唸ったが、そのままじっと考え込んだ。

と、また人の足音がした。ハッと思って振り返った眼前へ、ツト現われた老武士があった。

「卒爾ながらおたずね致す」

「何んでござるな、ご用かな?」場合が場合なので銀之丞は、身構えをしてきき返した。

「只今ここへ怪しい人間、確かに逃げ込み参った筈、貴殿にはお見掛けなされぬかな?」

「見掛けませぬな。とんと見掛けぬ」

「それは残念、ご免くだされ」

いい捨て向こうへ駆け抜けようとしたが、幽かな常夜燈の灯に照らし、銀之丞の持っている鼓を見ると、飛燕のように飛び返って来た。

銀之丞の手首をひっ掴むと、「曲者捕った……鼓! 鼓!」

「黙れ!」と銀之丞は一喝した。「鼓がどうした? 拙者の鼓だ!」