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めいじんじごく

名人地獄

国枝 史郎

「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页

青空文庫

が、それも今は愚痴か」

浪人はムッツリと腕をくんだ。

「俺はお前と別れようと思う」浪人は憎々しくやがていった。「くらしが変れば心持ちも変る。……俺は成りたいのだ、明るい人間にな」

女は肩をすくませた。

「それがあなたに出来ましたら……」

「別れられないとでも思うのか」

「あなたも妾も二人ながら、のろわれている身ではございませんか。二人一所におってさえ、毎日毎夜恐ろしいのに。……それがあなたに出来ましたら」

夜がふけるにしたがって、隣家の騒ぎもしずまった。笑い声もきこえない。

ボーンと鐘が鳴り出した。諸行無常の後夜の鐘だ。

「酒はないか?」と浪人はいった。

「なんの酒などございましょう」

きまずい沈黙が長くつづいた。耳を澄ませば按摩の笛。それに続いて夜鍋うどんの声……。

「こんな晩には寝た方がよい。ああせめてよい夢でも。……」

枕にはついたが眠れない。

犬の遠吠え、夜烏の啼く音、ギーギーと櫓を漕ぐ音。……隅田川を上るのでもあろう。

寂しいなアと思ったとたん、

西は追分東は関所……

追分の唄が聞こえて来た。

「あッ」

というと二人ながら、ガバと夜具の上へ起き上がった。