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とらわれ

囚われ

豊島 与志雄

「早稲田文学」1915(大正4)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,848 字 · 42 页

青空文庫

それにも らず、彼はやはり階下に居る富子のことを思い、また彼女と恒雄との間を思っていた。そしてふと或る時恒雄が興奮しながら語ったことが彼の記憶に浮んできた。

――それはある狂わしい晩春の頃であった。恒雄と富子とはよりそって、夕暮の空に流るる悩ましい雲を見ていた。富子は指先を男の手に嬲らせながら、そっと横顔を男の顔にあてた。

「耳を……。」と彼女は囁いた。

恒雄は柔い女の耳朶を唇に挾んだ。

「もっと強く。」

それで彼は強く歯でそれを噛んだ。

「いたい!」と女は云ってつと顔を引いた。それからちらと夫の顔を見た。彼女は何だか狼狽し、それから顔を赤くして俯向いてしまった。

恒雄はじっとその姿を見た。「俺よりも妻の方がよほど処女に遠い!」と彼は思った。それから後で彼はそれを思い出す度毎に、妻の感覚のうちにはあの男との過去の回想が交っていると推定したのである。

孝太郎は今その話を思い出して、ある嫌悪の情が起った。然しそれは富子に対してではなく、それを云った恒雄に対してであった。そしてまた今日恒雄と一緒に行かなかった富子に対して、わけもなく腹立たしいような思いをした。