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よるのくつ
夜の靴
横光 利一
――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页
「久左衛門さんにお米のこと頼んでみて下さらない。もううちには無いんですもの。」
妻は私の出がけにそんなことまで耳打ちしたが、米のことなど私は彼には云いたくない。いや、何一つ久左衛門には私は頼まぬつもりだ。また今までとても、まだ私からは物資のことなど彼に相談した覚えはない。
「お前んとこ、ここの村へ闇左衛門の世話で来たのかの。」
と、こんなことを、ある日近所の娘が妻に訊ねたこともある。久左衛門のことを、闇左衛門と云ったりしたことなどから察しても、おそらく私たちまで怪しげな眼で見られているのかもしれないが、まだ私は特に彼から不愉快な思いをさせられたこともないので、彼を信用するしないは後のことだ。けれども、ここへ来てから一ヵ月、日をへるに随って彼の悪い噂ばかりを耳にする。善いことなど一度も聞いたことはない。農夫にしては稀に鋭い頭脳で、着眼の非凡さは、およそ他の者など絶えず蹌踉めかせられて来つづけたことも、想像してあまりある。しかし、そんなことも知れたものだ。
「旅愁って、何のことですかの。」
と、久左衛門は急にまたそんなことを私に訊ねた。昨夜、私の旅愁が放送せられたそのことを云うのだろうが、ラヂオはこの家だけにあって私は聞いてない。