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よるのくつ
夜の靴
横光 利一
――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页
またこの術を研究し始めてからの彼は、それまで夢中になって読んでいたヴァレリイのことについても、ぱったり口にしなくなったばかりか、ひどく人間が真面目になり、私の応接室用の煙草を三本吸うと、その日帰ってから別に三本持って返しにわざわざ来たりした。おそらく彼は天上派だったのであろう。
「しかし、天上派も堕落派もどちらも決して使ってはならぬという封じ手が一つあるのです。相手の背のある部分を軽くぽんと叩く手ですがね。これをやると、やられたものは何時間か後で、ぱったり死んでしまうのです。」
そうも云ってからAはまた、ある堕落派の天才で一人、大阪で誰からとも分らず斬り殺されたもののあったことを話した。それは非常な天才で、それが人から斬られるということは習練者ら一同の理解し兼ねることだったが、あるとき謎が解けた。その男は満洲を渡っているとき、人知れず苦力の背に封じ手を使ってみて、後からひそかに蹤いて行くと、やはりぱったりと仆れたまま死んだという。
「リアリストの最期か。」
と、そのとき二人は笑ったことがある。国にも思想にも文学にも、封じ手はあるものだと、いま私はそんなことを思っている。