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よるのくつ
夜の靴
横光 利一
――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页
「あたし、このお茶碗を見にだけでも、もう一度ここへ来たいわ。いいこと。ほら。」
久しぶりに美に接した慶びでためつすがめつしているが、私は火鉢の炭火の消える方が気にかかった。昨夜文化部からお礼に届けてくれた酒一升も、もう酒を飲まなくなっている私には興少く、誰かこの酒と煙草とを交換してくれる客はないものかと、番頭に訊ね廻らせてみたが駄目だった。ここでは酒よりも煙草の方が少いと見える。午後から冷えて来て寒い。
十一月――日
朝の十一時のバスで帰ることにした。妻はまだ宿の湯呑茶碗と別れることを惜しがって、立ちかねているのが、おかしくあわれだ。
「こっそり一つ譲ってくれないものかしら、東京にだって、こんなのないわ。」
掌の上へ載せてみては、買えるものなら幾ら高価でもいいと呟いている。
「譲ってくれないなら、一つだけこっそり貰って帰ろうかしら。」
「おいおい、盗るなよ。」
「まさか。」
ふざけて、そんなことを云ってみたりまでしているが、私にはそれほど魅力もない茶碗だ。妻はやっと部屋の隅へ五つ揃えて茶碗を片づけてから、
「さア、行きましょう。」と云って立った。
バスの待っている方へ歩きながら、私は、まだそれほど一つの茶器に執心する感動を失ってはいない妻から、ある新鮮な興味を覚えて、妻とは別の感動に揺られていた。