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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

ある日のことを私は思い出す。それは晴れた冬の日のこと、渋谷の帝都線のプラットで群衆と一緒に電車を待っているとき、空襲のサイレンが鳴った。間もなく、B29一機が頭上に顕れた。高射砲が鳴り出した。ぱッと一発、翼すれすれの高度で弾が開いた。すると、私の横にいた見知らぬ青年が、

「あッ、いい高度だな。」とひと声もらした。

話はそれだけのことだが、そのひと声が、晴れた空と調和をもった、一種奇妙な美しさをもっていた。敵愾心もなく、戦闘心もない、粋な観賞精神が、思わず弾と一緒に開いた響きである。私はこの世界を上げての戦争はもう戦争ではないと思った。批評精神が高度の空中で、淡淡と死闘を演じているだけだ。地上の公衆と心の繋がりは断たれている。それにも拘らず、観衆は連絡もなく不意にころころ死んでゆく今日明日。たしかに死ぬことだけは戦争だが、しかし、戦争の中核をなすものは、何といっても敵愾心だ。いったい、今度の長い戦争中で、敵と呼ぶべきものに対して敵愾心を抱いていたものは誰があっただろうか。事、この度の戦争に関する限り、この中核を見ずして、他のいかなることにペンを用いようとも無駄である。