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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

しかし、戦争で過誤を重ね、戦後は戦後でまた重ねる、そういう重たい真ん中を何ものかが通っていくのもまた事実だ。それは分らぬものだが、たしかに誰もの胸中を透っていく明るさは、敗戦してみて分った意想外な驚愕であろう。それにしても人の後から考えたことすべて間違いだと思う苦しさからは、まだ容易に脱けきれるものでもない。

防空壕に溜った枯葉の上へ、降り込む氷雨のかさかさ鳴る音を聞きながら、私は杜甫を一つ最後に読もうと思って持ち込んだこともある今年の冬だ。しかし、今は、戦争は停止している。私のここで見たものは一人の白痴だ。

この白痴は参右衛門の次男である。先ずその日その日が食べられるというだけの、貧農のこの家の生活を支えているのは、二十三歳になるこの白痴だ。名は天作、彼は朝早く半里もある駅の傍の白土工場へ通い、百円の賃金を貰っている。参右衛門の怠けていられるのもこのためだ。天作は身体が父に似ていて巨漢である。無口で柔順で、稀な孝行もので、良く働き、何の不快さもない静な性質だ。およそ他人に害を与えない人物でこれほど神に近いものはないだろう。彼の仕事も三人力で、山から白土を掘り出すのだが、この土は武田製薬の胃薬の原料になるものだ。