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よあけまえ

夜明け前

島崎 藤村

01 第一部上

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 205,629 字 · 408 页

青空文庫

貧しい彼はそれほどの金をかつて見たこともなかったくらいだ。

寛斎は牡丹屋の二階にいた。その前へ来てすわって、手さげのついた煙草盆から一服吸いつけたのが安兵衛だ。

「先生に引き受けていただいて、わたしも安心しました。この役を引き受けていただきたいばかりに、わざわざ先生を神奈川へお誘いして来たようなものですよ。」

と安兵衛が白状した。

しかし、これは安兵衛に言われるまでもなかった。もとより寛斎も承知の上で来たことだ。

寛斎は前途百里の思いに胸のふさがる心地でたちあがった。迫り来る老年はもはやこの人の半身に上っていた。右の耳にはほとんど聴く力がなく、右の目の視る力も左のほどにはきかなかった。彼はその衰えたからだを起こして、最後の「隠れ家」にたどり着くための冒険に当たろうとした。その時、安兵衛は一人の宰領を彼のところへ連れて来た。

「先生、この人が一緒に行ってくれます。」

見ると、荷物を護って行くには屈強な男だ。千両箱の荷造りには嘉吉も来て手伝った。

四月十日ごろには、寛斎は朝早くしたくをはじめ、旅の落し差に身を堅めて、七か月のわびしい旅籠屋住居に別れて行こうとする人であった。