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よあけまえ
夜明け前
島崎 藤村
01 第一部上
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 205,629 字 · 408 页
」
「そう言うものじゃないよ。用事がなければ、親類へも行かない。それが出家の身なんだもの。わたしはお寺の番人だ。それでたくさんだ。」
婆さんは鉄漿のはげかかった半分黒い歯を見せて笑い出した。庭の土間での立ち話もそこそこにして、また裏口から出て行った。
やがて正五つ時も近づくころになると、寺の門前を急ぐ人の足音も絶えた。物音一つしなかった。何もかも鳴りをひそめて、静まりかえったようになった。ちょうど例年より早くめずらしい陽気は谷間に多い花の蕾をふくらませている。馬に騎りかえて新茶屋あたりから進んで来る尾張藩主が木曾路の山ざくらのかげに旅の身を見つけようというころだ。松雲は戸から外へ出ないまでも、街道の両側に土下座する村民の間を縫ってお先案内をうけたまわる問屋の九太夫をも、まのあたり藩主を見ることを光栄としてありがたい仕合わせだとささやき合っているような宿役人仲間をも、うやうやしく大領主を自宅に迎えようとする本陣親子をも、ありありと想像で見ることができた。
方丈もしんかんとしていた。まるでそこいらはからっぽのようになっていた。松雲はただ一人黙然として、古い壁にかかる達磨の画像の前にすわりつづけた。